何かにとらわれるな過ぎるな

何かの目標に向かって一極集中とはまた違います

執着過ぎると前が見えつらくなるほか
気持ちも落ち着きません

これは神様の教えの究極至極と心得るようにしています
まぁ何にしても心得ではありますが

お釈迦さんが云うように時には「あきらめ」も大事かしれません
でも、この言葉には深い本質が隠されており

人は心(感情)を持つ以上移り変わる
季節や自然も移り変わるのも、また自然です

時が来れば思い出したり奮起したりして物事に向かったりします
だから「仕方がない」とも言及されました

この奥には何が隠されているのかと言いますと
神様は自身のすべてを知っている
なので、あきらめも囚われも必要ないと言うところでしょうか・・・

千年の翠(松の鳥居)神物と滅多に作らないお守り

だから一極集中にしても、一度「よし!」と意識してしまえば

もう、神様はわかってるんだから後は淡々としつこさを持たずに
とりあえずのゴールに向かって進めるのかもしれません

そのように表現されたと理解しています。

人は様様にシンプルであり単純な生き物なのかもしれません
あとは、真っ直ぐみ、和合優先、古来的優先、定まった形を優先といった
個人の性質上の枠が導いたり、邪魔したりすると経験則から言えます

算相学(本質・宿命運勢上昇鑑定)

2021年1月5日

例えば、祝詞を唱えれば、神社にお参りにいかなくては
所謂、神業なんですが、これ自体は別に悪い事ではありませんが

特に祝詞を毎日奏上する事で守護してもらう、神様の為に・・・

これも日々の鍛錬では大いに結構なのですが

問題は「鍛錬」というところなんです

今月は6月、末日には今年前半の大祓があります
ここで出てくるのが「大祓詞」

私は毎回、忘れて、あ~忘れたなんて毎年言ってます
年末だけは忘れません・・・来年は良い年になりたいと思う
欲があるんでしょうね

でも欲は時には「良く」に変りますから一概には言えません
これも囚われない

それで鍛錬なんですが、大祓や天津祝詞を言って
本当に祓ってもらえるのでしょうか?

それとも何かしかのパワーだとか良い運勢上を期待するのでしょうか

少し、いじわるみたいな言い方で「ゴメンなすって」

奏上すれば言霊の力、私が書いた祝詞であれば文字霊と効力は
絶大無量と自負していますが大事なところは「根源」を観る・感じる・受取るです

つまり、どの祝詞にしても神を敬う・・・なんですが

一体、敬うとはなんでしょうか?
ここに視点を置かないといけないと私はこの思いはブレません

それは縦の順序です
行き着くところは神の理です

特に大祓詞は「親父の小言」昔、手ぬぐいありましたね
そこなんです。

すめらみことの勅命(教え)を皆々守り、異議を唱え従わない者共も
静かに聞いて守りなさい

神が落胆(悲しむ)行為は神罰として罰する
人の行いで、これこれを犯す者も同じく

しかし、すめらみことにならい、心身反省し心を入れ変えるならば
すべてをなしにして(無しにしては神罰の事です)神のおおみいつは
平等に照らされるであろう
皆々、この慈悲を耳の穴をよく開いて聞きなさい
そして申したぞ・・・です。

これを民衆である民は誰から聞くのでしょう
官じゃないので恐れ多くも、すめらみことの御前にはいけません

その教を守ってきた親になる訳です
親は自信からみれば祖父母から教えられます
祖父母はそのまた親、ご先祖様になるわけですね

さらに遡ぼれば神々(官)にいきつき、さらにのぼれば
すめらみこと、そして男であればイザナギ、女であればイザナミにいきつきます

祝詞は「人として」当たり前の情愛や和合や協力や慈悲心やいつでも迎えれる心
これを「神の理」と言います。

決してキレイな着物きた瀬織津媛が出てきて祓ってくれて
最終的に早佐須良姫が消してくれるのではありません

上記に書いた通りです。

文面からここを見つける為に日々唱える訳です
結果的に毎日、神に捧げると

神様側からしてみれば、うんうん、良くわかってるな、良き良き
となる訳ですね

ですから、奏上すると力が貰える、家が栄える、神と一体になるなんて
という思いが執着すると己の利から離れる事はできません

神業をしようが、しまいが常に神はおわすところなしです
これは神書を日頃、お読みになってる方は、そうそうと思うでしょう。

経文に気をとらわれてこだわりすぎると不変の真理は遠くに
いってしまいます

日々、内観と戦い、余計なものは捨てる
しかし、常にそういう気持ちでも、そこに囚われてしまう
持っているお守りもそうですよ・・・一心同体ですからね。

だから、何かの目標に向かって一極集中は胸に抱き
成し遂げるという意識で時には

一休み、一休みしながらいくと

神様は、お~良くわかっとるなぁ~と言って
目をかけてくれるでしょう。

しかし、神を外側で観てはいけません

ここが「落とし穴」なんですね・・・。

とらわれるな過ぎないことで
その言わんとする部分が理解していきます