菊理比咩神の力

菊理姫は伊弉諾尊と伊邪那美命の夫婦ケンカを仲裁したり
伊邪那美命が亡くなって伊弉諾尊が黄泉の国を覗いて
逃げ帰ったお話があります

縄文時代は人が亡くなると肉体が腐れるまで地中で弔いし
時期をみて、再度、遺体を上げ
海にて、またはきれいな河川で骨に残った肉片を削ぎ落とし
また、改めて埋葬する
これは高貴な人や王族だけの風習で庶民はそのまま永久に
土葬されます。

これは穢れという観念があり、キレイな骨だけにし
魂をキレイな状態で黄泉の国に送るという風習です

この一連の事を「禊払い」し、禊終えれば「禊祓い」に変わります

伊弉諾尊が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(福岡県西区小戸)で
どうしようかと思い悩んでいた所、菊理姫が現れ
適当に洗って(削ぎ落とす)また、土中に埋葬すると
魂も穢れた状態なので完全にキレイにした方が良いし
清らかで送ると神の国(当時は自然万物宇宙という意識)に戻れますよと
助言した話です

ここまで書いたら、少し触れますが、縄文人は
宇宙を含め1つ1つの自然万物に「おかげ・ありがたい」という
意識の日々であり、身近にとらえたいというのも人情であり
大いなる力と表現し、神と、とらえたのです

時代が進み、あらかさまに効果効能という表面意識から
ご神名として、また、ありがたい地域として
今で言う、ご当地宣伝みたいなもので
根本は同じなんですが、ありがたみそのもの、喜びそのもの
神であるという心が神道です。

まぁ私の意識内の旅のお話なので、ご考察ください

また、姫という概念は女性を意味しますが
これは中世頃からのイメージで日本は古代より浅からぬ古代中国と
関りがあり、姫は古代中国の殷の時代から存在する
姫氏(ひし)からです

もし、姫を女性とイメージし姫様と言うならば
妃または名を呼ぶのが正しい
よって、〇〇姫神というものは存在しなく
あまねく狭い範囲(個人の観念世界)のものでは
在ると言えば在るしというところだと思います。

瀬織津姫もしかりです、言うならば瀬織津女
港に運ぶ山でキレイな織物を運ぶ
運ぶものは織物だけではありません、鉱物(金銀銅)であったり
作物等であったり・・・
これは最後に宝(お金)に変わります、生産性というところから
水の流れと云われ、後世に水の神と譬えが変わっていった。

そして、これらの生産、技術の特権は王族がしており
その労働を担ったのが民です
ちゃんと、対価はあり事業なんですね。
この頃になると弥生時代と云われます

話は長くなりましたが

菊理比咩神は「ククル、ククリ、括り」からきており
ククルは「締め」終結を意味し
また、締めには統率、話し合い(和)というものが含まれ
ククルは大きな力があると云われてきました
そのククルを締めたという合図が柏手なんですね
その時、うんうん、よしよしのひとのしぐさが御頭低(お辞儀)なんですね

だから古事記や文献読んで、すぐ神の世界や女神とイメージするのは
そこから始まるんですけど、人間の日常の営みをあらわしています
権力者の力を誇示していく為に譬え(教えなかった)
しかし、縄文より家系先祖からの教えがある家は
その秘密を知っていました

まぁ私の魂を飛ばした宇宙の意識の旅で知ったお話ですので
あてにはなりませんが現実を不思議角度で観るという観念をもつと
もっと意識が、波動が振動が宇宙に近づくんじゃないかと思います

しかし、観念はあくまでも念ですから固執すると
念に囚われ、意識の発展が妨げられます

また、人によって観念が違いますから
どれが正解などはありません
ただ、子供向けのおとぎ話に入らない事は言えるかな・・・と思います

これからの時代は真実を知っていく時代です

さっきのククルの話ですが最後の締めで
これを括って我が家門の幸の始まりにしよう・・・
縄文人はいつも意味を込めて何がしか作っていました
生産というものは日本の宝です
アマテラスもコメを作りなさいと云われたくらいですから。

作品は「括って」ます。最後の締めは持った人が入れてください
手のひらの中に入れ、心で(何でもいい)思うだけです
宇宙にその量子が生まれます。

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