今日は国語の時間みたいで、
おもしろくないかもしれません
しかし、私的には大事で今世で自分神道の基礎になっているからです
まずは、今を祝い感謝で昨晩は外で団子を食べました
3つの団子と思ってたのですが、食べてる途中で4つ団子に気づきました
十三夜のお月さん見ながら団子を食べようか?
縁起だから・・・
そして神様は3つ、願い事を申せば叶えてやるぞと・・・
1つ目、神様に申し上げまする~何々と
2つ目、
3つ目、のお願いで、気づきました
あと1つ、あるじゃありませんか!
儀式と思っ、お月さんに向き合ってるから
ここで、なぁなぁになったり、遊びになったらいけません
困った私は一瞬、考え
「3つの願いは神様にお任せ致しまする~」で締めて、無事、食べました(笑)
願いは個人的なものでなく、世界的に祈りました
平和とか、戦争ありませんようにとか、すべての人に祝福ありますようにとか
そんなものではありません。
私、正義とか勝利とか言葉は好みではありません
というのも、光が存在するには闇が必要でまた、逆もしかりで
勝った暁には利があるからという観念があるからです
また、観念は未だに囚われては道の妨げになる
念を観るですから・・・観てはいけない
一旦、念を作れ(観たら)ば、あとは天に宿していただく、これが道です
だから、道途中に未だに草むしりしながらの道中です
道中ですから、先は分かりません
ただ、それまでの道順は人に教えれる
観念、信念に囚われては神の技を見る方になびくから。
捉えるものを実在とし、捉えられないものを妙なる虚構とすれば
そこに想像が降りたち、虚実を思い起こしたものは
地や人にも歪みが生じて、地球は元に戻そうとするわけです
それを一番に受けるのは日本の宿命です
これを逆様の鏡と言います
ですから、皆、心が健康で元気でなければいけません
神国(陽)の国、神自らですから。見本を世界に促すのも宿命です。
何なるかに行き着くとする事が信仰であり、寄り添うことであると
思っているから、捉えるものを実在とし、捉えられないものを妙なる虚構は
偶像崇拝そのものと理解しています
その証拠に私は、お釈迦さん、主イエス、南無大師金剛が大好きです
中でも「私の話を聞きなさい・・・」この教えが大好きです。
お釈迦さん、主イエスもお二人、言われています
「なさい・・・」は命令語の意味ではなく、一旦落ち着きなさいという意味
私は、あなたの困難(苦)に向かい合いますから・・・という聖人の意味(思い)でもあります。
「聞き」は寄り添ってみなさいという意味で
決して、従いなさいでは無いのですね。
この時点で、寄り添いなさいではないんですね
聖人は何が言いたいのかというと、良い(合理的、論理的)に教えますから。
でも万民に、同じ話を施したのではありません
目の前に合った、その人に合った最も良い方法を諭したのです
これを愛と言います。
聖人の思い(愛)は最後の意味にたどり着きます
「学びなさい」分からない事、知らない事を観なさい
と思いをはせたのです。ここが愛なんですよ。
何故、愛を投げたか、相手が受け取れると見抜いたからです
偶像崇拝に気づかせる為です。
お釈迦さんは、さらに衣服を脱ぎなさい
主イエスは、重い石は沈む
どちらも同じ意味ですね。
こんなお伽噺もあります
ある時、山の中で生活する神道に長けた人がいると
修行仲間から聞いて、そこへ行きました
神道を自力で学んでる者です
色々教えてくださいませんか?
「この山に入ってどれくらいで着いた?」
はぁ車で30分位、登ったと思います・・・
「その道中が吾、神道だ」
へっ?
それで夢が覚めました。
その後、これは現実で示されました
英彦山の神様にお参り行ったときです
御神名は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳之命
速日は速神の事で(天使、神々) の事です
神はすべてに於いて、何事も速い、瞬時に分からせる
しかし、大いなる神に於いて、
我が子が生まれた瞬間、神よりも速く瞬時に歓喜を起こす
ここに大いなる神の子という証を忘れてる人々
息を止めても、息継ぎしたいという思いで止められない
これも瞬時に知らせてくる、生かせられてるという神の速日
吾は自身に降りかかる困難や日々
神と向き合う(対立)で北と南の事ですでに困難に勝っている
勝っているは、光を浴びている
だから、正勝
これらを目、耳、口
見申(去る)、聞か申、言わ申・・・黙って勝(正しく進む)
黙って山を登る
日々の私の一環事・経験・学ぶ・知る
夢の神道者の教えに、ここで気づきました
すでに日々、太陽、月に迎い神道をしてるではないか。
この教えが「一旦落ち着きなさい」日々を観るで
すべてが繋がり、意味が分かったんです
この時の喜びは忘れません
また、御月見するのは腹を見せるでもあります
月は陰、人間の腹も陰。マイナスとマイナスで「陽」で光
だから、お月見で縁起、もちろん、その今を季節の来福を天に祝福捧げる為。
そして、私は思う・・・南無~
精神は南で始まる
心を無にして、また、励む。これが南無。
心が軽くなれば、次の心が来る
脱がないと、軽くしないと次が入らない
季節毎、春夏秋冬に心も一緒に入れ替わる
ということは、心は万物であり、空でもあり無である
夜空の星を観ても空である
すべての人も何もかも、是である。
ただ、是しかないのに、何故、正義があるのか
あるのは邪な正、闇である
しかし、これも必要である
そうでないと愛は生まれない
どこに勝利するのか、利の為に、何の利か?
現実がある、そうは言ってもがある
だから、私の話を聞きなさいになるのですね
困難ですよと言うならば、吾勝正勝になりなさいに繋がるんですね
話を聞かない人は、正義というのですね。
何とも妙なる話です
その妙なる話を学ぶ人を妙見菩薩といいます
だから妙は尊い字でもあるのです
空に生きてるから
すべては、神も人もみな同じ
これも妙見。
そして、この子の七つのお祝いに・・・
七歳で人間となった、この子に天の神が守護されるのです
これを北極星、北斗七星
天之御中主と言い、妙なる話で妙見という云われです。
また、天之(あめの)あんま(見えない)、まんま(ご飯)
まんまが訛ってマナ(パン)
また、アーメンだと理解しています。
そして、私は囚われない
念を起こした私は黙って空になるのです
何とも妙なるお伽噺でした
※今から、太陰暦では冬になっていきます
季節が変わるという事は環境が変わるということになり
同時、心も変わります
一般的に夏の恋が終わるようなもんです
だから、何となく寂しい
そして、本格的に冬を準備して恵みに感謝し今、活動するのです
ですから、気候も安定になってくれるのですね
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