知識は最初は必要だが脱ぎ去る事

着ている衣服を脱ぎ捨てよはこの事です。

最初のとっかかりは知識や経験は大切であり手段でもあります

しかし、それらは過去の事物であり

過去は自分を助けてはくれません

あの時があるから、今の自分がある

今の自分は過去に委ねてはいけません「今」です

今、どうあるか、どうあるべきか?

これも大事でしょう・・・

囚われると、自身の心は益々、遠ざかります

そして、自身が学んできた知識や経験の条件下に下ります。

最初は知らないから、いいんです

地図も必要です

しかし、地図通りに進んでいても

あれ? おかしいなぁ・・地図通りに行ってるはずなんだけど

疑問が生じます

何故だろう、このままでいいのか進んでも?

ここが重要です

知る、知ったと言う事から、探求へとはじまります

心はいつも、すべての根本的原因です

そう・・・いつも、この(すべて)の背後に隠れています

探求という行為は囚われない自由という事です

 

例えば、あーなりたい、こうやって、あーやってと

物事は忙しく

心は大変と、難しいと、大丈夫かな・・・と「彼」は認識します

心は「表」に出てはじめて探求となっていきます

つまり、背後ではなく「こうなる」と心と同一になることが大切と言える

と、思いながら理解してきましたが、もうそれは過去の事です

今からの事に対処はできても最初だけです

せっかくの苦しさや困難が提供されているのに
甘えに走るのが私も含め、ほとんどの人でしょう・・・・

心を表に持ってくるには物事に囚われない執着しない

思うままの心だけです

いつも(いつもは時間)でなく便宜上、常にが厳しい今です

その心を助けるのが

忍耐、忍辱を失ってはいけません

また、忍辱は英彦山の伝説上の開山者であり

もうすぐ、英彦山の神様が私の背中から降りられるので

現人神のお役目も終わり

思えば忍辱の3年間でありました。

その思いの念彼(ねんぴ)を経験させていただいたので

無事、これから進めるよう念彼観音力をお譲りしようと

書き留めた次第です

神様の特長でもありますが、あとで便宜されます

形、用途に囚われては心は裏に隠れます

畏れ多くも「かけまくも かしこき」ですから。

キャッチ画像の阿弥陀如来は英彦山頂上垂迹として御鎮坐します。

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