真理の要諦(神を学んでいく上で大切な事)

これは重要な事であります

神を学んでいく上で大切な事で

少し戸惑うかもしれませんが事実なのです

歴史、神社仏閣の事やその他、特別な知識、まったく必要ありません。

重要な事なのでブログには何度も書いています

 

 

それは「神様とは何か?」という事に疑問を持つ事

しかし、人々は何年も何十年も不思議や霊力、神秘などを

受ける側も施す側も人々を導く、お役目という言葉を都合よく思い込みし

魂の最下層である霊能に酔いしれています

そして今、世界はお互いの「和の尊重」を分かち合うことなく

批判、怒り、賛成、反対、制裁などの悪思考に溺れ

これでは神とは何かを神に疑問投げかけても答えてくれません

世界平和を願っても五千年歳月変わらずの信仰の愚意の如く世界で

日継が証明しています

これから先のお話は戸惑うかもしれません

神書(一~三)の理解に努めている方、このブログを何度も読み返している方

どんな風に魂(心)が変化していくか書いてみたいと思います

基本、個人に最も合う道が導かれますが

およそ主軸は一緒です

神を本当に信じて学んでいるのに

日夜、気づき起こし前に進む事を懸命に励んでいるのに・・・

悲しいかな・・・それでも人は悩みます、葛藤します、病にもなります

ある一定のレベルまで到達した時

あなたは悩むけど、悩まない

葛藤が起きるけど、意識が自動でマイナスをはねのける

病になりそうになるが、ならない

寸前に助けられる

例えば悩んで違和感持った瞬間、道は分かれます

何かに依存している人は、悩みという物事が自然解決するまで進みます

例えば、悩まない人は神を理解し始めた方であり、そもそも悩みが起こる前に

対処の知らせがきます。その知らせに気づく、気づかないに変わらず

無意識に事前行動をしようとします

これらはですね・・・

 

 

いつもご覧下さりありがとうございます。どうぞ続きをご覧くださいませ

元々、そういう力は持っているのです

映画がはじまる、スクリーンのカーテンのように常識で閉ざされています

葛藤にしても誰でも大統領でも司祭でも宮司でも僧侶でも、あの人もこの人も

仮に葛藤に出くわしたとしても、現時点まで何故、そのようになったか思うか

走馬灯のように理解し、課せられた任務として受け止める事ができるから

葛藤がない・・・悩みの入り口に行き着かなくなる

病は、意思、無意志に関わらず、もし病になっていたとしても

治すように事前に知らせ(示し)がきます

疑問を持つことなく、その障害を現時点と理解し回復または健康体へと

努める事ができます

物事も含め、すべてが神の仕業と分かってきます

最初の取り掛かりは神を知りたい、神とはからはじめます

次に真剣がどうか試されます

常に意識上に神を持ってないと真剣かどうかで却下されます

要は「本当に真剣なのですか?」それとも万事うまくいくように利益がらみ

ではないのかと神は問います

そこで意識上「いえ真剣です、利益なんぞ」となると

神様は、じぁ仕方がないな・・・となっていきます

このお話はアブラハムがイサクを殺める場面です

神は真剣さがわかり、天使に命じてアブラハムのナイフを取り上げました

元々ですね・・・神は

神は私達に興味はありません

神は、この彼岸の魂に関心はないのです。それは生まれる時に

すでに神の力を持たせてるからです

時々は機械的に人間生臭さすれば神は喜ぶ・・・

調子にのると、忘れたりすると、神を喜ばせる事をしなくなると

神は存在している事を知らしめてくれます

しかし、一定の(個人によって違う)レベルを越えると

厳密には現時点の魂の振動域を越えると(レベルが上がる時)

精神領域を揺らす(これは試験みたいなもので物事を課します)

それに揺らされ、クリアーする度に彼岸(この世)の階層(自身の心=魂)も上がる・・・

それまでに知り得た、経験した智慧で進んでいく(知ったかのように甘んじる)と

神は知らしめます

何か神を怒らせたかなと思い、神をまた意識しはじめます

神様はある1つの事をあなたに教えます・・・

自分で決め行動しているようだが、これさえも

神の意志によるもの

それが理解できれば次の課題がかせられます

神からの無言の教え・・・

これが一番難しい

ほとんど、これで落第生になります

また、霊能低次元に戻ります。困ってすがって泣いて何も無言だから

しかし、根に常に神を持っていると

その無言は究極の教えだったと後々、理解するのです

それは神の正体で

無極であり無言、無音の静寂が神であるという事

その静寂の中にいる自身は神であるという事

ですから

天地にありては神

万物にありては霊

人倫にありては心と言うのです

「尊和」は静寂を導くスタートなのです

冒頭に書きましたように、何かあるとすぐ

批判、怒り、賛成、反対、制裁という知能の低さに

宇宙に存在する生命体は人類を相手にしないのです

来るのはまだ次元が低い生命体です。

最終的に神に関するあらゆるものがなくなります

心ですべてがまかなえます

神はそれがお望みなのです

そして人間が神だと目覚めると世界は困るのです。

釈迦は何も考えるな委ねよと言った言葉を

中道という言葉で濁したのです。

そして臨機応変(神の仕業)にあきらめて生きなさいと説法したのです。

釈迦は仏教という名を広げるのでなく

神と人とは教えたのです

この言葉も濁して「彼」と言ったのですね

最後にその彼は誰か? どこにいるのか?

問われました

神書(一)に書いています

 

 

 

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