タイトル最後の「流るる」は家系を意味します
先祖供養のお話の時を書くにあたり
その前にいくつかのお話を書いてみようと思います。
境無しは分かりますか?
これ、何度も携わってきた葬儀の時に気づいてまとめたものです
人はどうしても神性、仏性をカタチで捉える、世の常です
常だから、説いてもやがて理を忘れうつろう
それは、皆、己心があるから仕方ないです。私もです。しかし理は宇宙
古代もこの先も変わりません。変わらなければ、そのままそっくり流れます
受継ぐ・・・これも理だと心得ています
なるほど・・・わかった・・心を変えてみよう
誰もが最初は奮起する、しかし時と共に己心が邪魔する
現実で懸命に努力し、誰が見聞きしても、変わった、一生懸命だね・・・
でも、うまくいかない・・・人は最初から楽を得ようとするからだと思う
お釈迦様は充分に承知し、善の実践を説法する
実践すると境ができ己心は半減していく、でもその根は残る
やっぱり己心の邪魔だろう
何かが境を境としない力を感じる
先祖のに関する話ですね。
そういう世界からの力もあると思います
そう・・・すべての根源は己心だと。一言で言うと
我が身大切、我よし
だから受け継ぐ、その輪廻は続く、そして困る
「心は環境によって変化する」
心は環境の変化によって動いている、環境が静かである時は心は清らか
これに気づいた時、ある思考に行き着いた
それは容易に解けた
自身の性格は生まれ持って、育った環境、いかにマイナスを補うか
戒めるか、そして心穏やかに豊かに持っていくかは自身にある
これと先祖供養を同じに考えると
何かに気づくと思います。
己心(こしん)とは、自分よがり・自分が正しい・これじゃなきゃだめだ
合理的(楽)ばかり重視し、作務を忘れる、一見無駄な行為の中にも正解を知らない
まぁ、我欲ですね
その調子であると、それが普通になり回りの評価は低いし
本人は気づかず、その波に溺れて当たり前の自分となる
境とは神性、仏性にしても同じで線引きであり
ここからここは、ここ。というような公私部分
仏道であるならば修行地であり、先祖供養と言うならば真心を作り出す場
だと思う。
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