今日がだめなら明日、明日がだめならその次
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら
生きてきたような気がします。
ほんと詩にあるように
わずかばかりの運の悪さを悔やんだりして・・・
1986年、当時わたしは35才で社会修行中です
それから10年間の記憶があまりない
覚えているの、わずかばかりの運の悪さと煩悩の火にあぶられていた事
でもですね、精神を体系的に考えることが出来た事が
現在の私にすごく役立っています
人は悩むと自分の身の回りすべてが負に見え考えてしまいがちです
釈迦はこれは煩悩だから、消えては現れ、あらわれては消える
だからあきらめなさい
神様の教えでは消える現れる、また消える
どちらも同じ諭ですが
少し異なるのが(これも同じかも)分別です
モノの分け隔て、区分け、区別
これはコレ、あれはアレと考えれば
つまり、この悩み(不安)はアレ等とは無縁だ
これは何故、そう思うかというと
過去に様々な人の相談を伺っていましたから
「何かご相談は?」と聞くと
最初はこれこれしかじかでお話されますが
いつの間にかアレもこれもと出てくる訳ですね
悩みを自らごちゃまぜにしてる訳です
ですからご本人にとってはいたたまれない大きな悩みですが
客観的に聞くと単純と言ってはそれまでですが
だから「一つずついってみましょうか」と話をとりあえず解してあげるんです
まずは自分の悩みにしても他人事のように
自身は1人なんだけど、もう1人いるとして話を聞く
観想するですね。
社会の仕事を通じて体系的に考え
現在の自分が嫌で不安ならば
自分が可哀そうと見えない自分を自分が何とか打破してあげないと可哀そうだ
じゃないと愛を持って燦燦と前には進みつらくなります
いつまでも悩んでいたら明日もあるし、今も。
それで私の場合・・・最終的にわずかばかりの運の悪さを
わずかばかりの不注意やわずかばかりの放漫として捉え
この不安(悩み)の種として片づけたのです
悪魔も名前が分かれば消えてしまいます
混沌とした気持ちも種を知れば、もう蒔きません。
しかし、どうしても不安、怒り、恨みという負の渦から抜け出せない時は
抜け出したいと思う気持ちさえあれば
とことん、魔境に落ちて
落ちた自分を見つめる。とことん見つめる
すると不思議が訪れるんですね・・・愛燦燦が・・
かくいう私もそんな時がありました
ですから今でも「わずかばかりの運の悪さ」があるからこそ
過大なる絶体絶命的な事は天の不思議な力なのでしょうか
回避されます
しかし、1度だけありました・・・絶体絶命的
これも詩じゃありませんが
やってられないわ!
そんな時、天は母をよこしたのです
ですから社会での修業がはじまったのです
モノで返せないから体と精神で返したかな・・・たぶん
すべての教えに反論や嫌な事でも従い
恩返しのつもりなのか意地なのか15年間、休みなしでした
色々、学ぶものがありました
やがてそれは神仏を思う精神にかわっていきます
変わっていくと言うよりは、たぶん応用したんでしょう・・・
だから神も悩みも解決するには日常にある
それが早道と言える訳です。
天の教えでは天を思う前に両親
これが南の精神の始まりです。
南から始まった精神を自分~家庭~社会~家庭~自分を置かないと
いけないという智慧を学びました
神を拝むより、愛燦燦の心持って人を拝めなんですね
ですから足元、身元かためて神の門をくぐります
北の天(北斗の星)にはいきつかないのですね
いつかは必ず「大丈夫」になります。
画像の符はこれからも書きますが
すべてに感謝する思いで書いてますから
不安な時など胸に当てると落ち着くと思います。
また改めてブログを綴っていきます
皆様、いつもありがとうございます。
よろしくお願いと白須。
現実界での悩みは精神界で答えを見つける
精神界での悩みは現実界で答えを見つける
これで陰陽のバランス
精神は「陽」 現実界は「陰」
特に精神界での悩みを、さらに精神で解決または満足しようと
思うのは余計、道が遠のく
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