聖不動明王について

一般的に不動明王は怖い顔に背中の大火炎

これで禍や不運を取り除き幸を巡らせる

 

という人々の解釈で結果的にそうだと思います。

そう信じてるのであれば、

 

 

その世界が創造されると思うからです

しかし、本当は明王はその姿から根本を教え諭してるという 気がしてなりません

それは仏様にしても神様にしても皆、同じという自己主観的定義があるからです

懸命に真言を唱えて満足する・・・安心感を得られます

でも何か、駄々をこね、おもちゃやお菓子をお母さんにねだっている様な

イメージがしてならないのです。それは他の仏様に対しても同じ思いです

しかし、これを深く掘り下げれば成り立たぬもあるし

真言は発するだけでも力があるし、これに携わるお坊さんには法力あるし

世の中、分かってる人だらけになれば社会の経済も世界は成り立たぬも分かるし

それで、メンバーの皆様に聖不動明王のお姿を共有したいと思います

神様も仏様も、ただアプローチの仕方、角度が違うだけで

同じなんだというのが、この記事や他の記事から

気づいて、または自身の幅の広がる事に繋がればいいなと思います

神仏から願いを聞いてあげようと言われるより

そうか、分かってくれたか嬉しいぞと、不思議なる力と教えを施そうと

好かれる方が自分は好きですね・・・

明王の心内、何を諭し、守護しているか

ご一考え下されば幸いです。

 

不動明王は「大威力」あり

大悲の徳のゆえに 青黒の形をあらわし

「青黒は大きな慈悲心を持って東は青=社会、北は黒=智慧、経験を意味」

大定の徳のゆえに 金剛石に座し

「金剛石=西、行動をあらわし硬い意思くを示す」

大智恵のゆえに 大火焔をあらわす

「大火焔=焼き尽くし囚われない心」

大智の剣をもって 貧瞋癡(とんじんち)の三毒を断ち

「貧しい心、無知、学ばない心、外に頼る、愚か」

三昧の縄をもって 暴れる心を捕らえる

「三昧(ざんまい)こだわる、我欲の強さ」

不動明王は大日如来の化身で その住居はなし

ただ信ずる人の心の中に住す

人々の願いは千差万別である 

「人の考え方、押し付けない、自分が正しいと主張する考え」

不動明王は人々の意に従って利益をなす

「それぞれの心で良い悪い無しで因が生まれる」

 

これらをよく、注意し常に自身の戒め懺悔を欠かさず

それでも仏の教えをと思うなら守護賜る

これが不動明王の心だと思います

ただ、拝めば、真言唱えばという浅はかな願者には

神の教えから引用すれば、どこかで(来世、今世)から幸を抜き

帳尻合わせ、今世で幸が成される

またどこかで不が廻る、これは理です。

「大威力」すなわち己の意思、智慧、行動による自分の力

それは難しい・・・難しいけど我慢して険しい顔の中に

大慈悲を学ぼうとする不動明王

これが、そうのかなと思います。

あとは己を信じる心

すると縁が生まれ不思議な力が天から降りてくる

結果、不動明王のお力となる

理を知れば、己を不動明王におきかえ大いに拝む良し。

これを供養ともいい功徳とも言います

功徳を他人に施してあげると、また供養になると思います。

 

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