須弥山の最初の門

須弥山の最初の門 神仏を御前にする時、

知って入る人と後でそうじゃないかなと2つに分かれると思う

または、そんな事も思った事なく神仏のご加護をいただこうと

する人もいると思いますが須弥山から観ると

そんな事は気にされません、自分は長くそう思いますね

平素に気を荒立てる事無く、我先という思いがなければ、それは何か?

神仏は必ず教えてくれます

仮に欲張った人だったり、困った時だけの神仏、教祖様でも

教えは施されます

最初は身の内にされるか、見せられるかの厳しいものです

この世は我が心が作る

そして、その心はたくさんあるという事

命があれば心はついていきます

この世の使命が終わり、あの世にいけば

心だけ残り、また他のものに生まれ変わるのかもしれません

まったくもって、その通りだと日々、懺悔あらわし

ある1つの事は確実に絶対に芯として守っていこう

きっとそうであるという事を忘れないよう努力継続してる次第ですが

忘れる場合もありますね・・・宿題を忘れるようなものです

でも、知ってる訳ですから、忘れた事は、ただ忘れていたというだけの事で

日々の懺悔が祓ってくれると信じています

「是の故に誦持講供すれば即ち苦を抜き楽を與え

修習思惟すれば即ち道を得、通を起こす、誠に宜しく然るべし」

いつも、この文を信じ、ある経を唱えています

もちろん、その前たる自身に言い聞かせてるものがあります

須弥山の最初の門 神仏を御前にする時

その心とは?

命は皆、同じ、すべては皆、同じ、すべての人も同じ

そこに善悪は知るところなし、神仏の御心大いに広し

「虫も動植物の人も皆同じ平等という事です」

そして道を歩む

道は自分の人生という道

 

 

 

険しかろが苦しかろうが、いつまでも続かない

これはお釈迦様がハッキリと申されてあります

大変な道でも、すべてに慈悲を分けてあげるのが

神仏が一番見るところかなと思います。

 

「是の故に誦持講供すれば即ち苦を抜き楽を與え

修習思惟すれば即ち道を得、通を起こす、誠に宜しく然るべし」

般若心経の事です。

今、あなたの仏は、考える、はるか遠くの所にいるのではない

その仏の場所は、はるか遠くにあるけれども

仏を思い念じてる者の心の中にある。

 

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