記憶の黄泉帰り

アイキャッチ画像は福岡観光サイトよりお借りしました

先日の日曜は能を観に行ってきました

能はイメージで観ます。こんな事言ってるんだろうなーとか

こういう気持ちなんだろうな・・・とか、意識の勉強になります

そして神様勉強、音の認識、真言、マントラ、陀羅尼、経の

本質が勉強できます

今回のメイン演目は「鞍馬天狗」

牛若丸(後の義経)に兵法を教えた大天狗、演の最終、牛若が行かないで・・・

と最後の別れを大天狗から告げられた時、いつも守護しておる

能の言葉は難しいんですけど、分かるんですね・・・イメージを楽しみますから。

集中して観てましたら

2つの記憶を思い出しました

1つは、牛若を演じるのは10才位の女の子です

自分は牛若とは違うイメージで、その女の子を観察してると

やっぱり、神の託宣を受けるのは純粋無垢な古来、古代より

女の子なのかもしれないと、ふと脳裏で感じた時

謎は解けました

実際は違うのかもしれないと思いますが、多分・・てか、そうだと思います

だから見つからない

女王の国、女王は神であり、巫女は巫女。1つでなくセット

女の子はやがて成長します。成長があると、次の女の子

こうやって引き継いでいたのかもしれない

それは卑弥呼

いやぁー間違いないなーと思いながら

鞍馬天狗に見入ってると、ある事を思い出しました

自分にとっては、とても重要です

今、思えば密教仏道に入るのは、その時から決まっていたのかもしれません

それは

今から16年前、20代の頃からよくお参りにいっていた

修験の山、叶嶽山

健軍地蔵大菩薩(本地垂迹:イザナミ命)愛宕太郎坊

同じ神様なので福岡愛宕神社(日本三大愛宕)に夜な夜な修行に行く

と、自分で設定

一度、記事に書いた記憶があるのですが・・・

初日、祝詞がすんで、後ろを振り向くと白い着物を着た仙人みたいな

爺を見ました。ビックリした瞬間、感心、感心と言って消えていきました

何やろ? あの爺は・・・と思いながら

初日記念として、当時、デジカメが流行ってましたので夜景を撮ろうと

三脚も持って行ってたので、福岡市内をバックに

ちゃんと映ってるかなとカメラを見た瞬間

「うあぁっ!」と

でも、妖怪とか悪魔とか亡霊のたぐいではない

愛宕の神様か? 画像でも直視できない位、恐ろしい姿でした

お召はとてもキレイで、顔は貴賓があります

しかし、恐ろしい、もし、愛宕の神様としても

こんな写真持ってるのは畏れ多い・・・で消しました

(もったいない、今はそう思ってます)が自分だけに見せたんじゃないかと思います。

 

それから時が経ち、今から6年前

台湾の霊能者と知り合いました、向こうから声がかかりました

あなたの後ろに、じっーっと立っています

今、私を見ています

とても高貴なお顔で直視するのは、怖い

でも、今まで見たことない高貴さ。不思議です

 

そう言うので、ふと、愛宕の爺を思い出して

白い着物着た仙人みたいなジジィですか?

 

いや、違います、白い着物ではありません

見た事がない、着物は知っています、そうじゃない

もっと高貴を感じるお姿です

きっと、あなたを守護されてるのだと思います・・・

 

そんな会話がありました

ふーん、一体誰だろう・・・家にはたくさん神様いるからな

わからんな。で、しばらくは考えてましたが、次第に忘れていきます

 

そして、話は先日の能に戻ります

能を定期的に通いだして4年

今回、発見!

 

あの時、あの台湾の人が言っていた高貴な服装、着物ではない

今、演目で鞍馬天狗が着ている、この服装だ

思い出した!

どうりで怖いはずだ、愛宕太郎坊だ!

やっぱり縁なんだなーと思いながら能をみるのでした

 

しかし、この発見には意味があります

「仏道に励め」だと受け取りました

守護神か守護霊か分かりません、今はそんなもの興味はありません

ただ、ただ、神仏が先。感謝です

能で発せられる言葉は言霊であり神語です

聞くだけでも心身が浄化されます。意識の幅が広がります

能はいつも、あらたな発見をくれます。言葉はシンプルです。

だから行く。神の言葉でもあると言えます

最初は慣れないから居眠りするかもしれません、でも魂は聞いてます

イメージで観れるようになったら通です。4年もかかりました^^

現代の人間は至らぬ言葉が多いかもしれません、ましてや正言でなく

穢れ言葉が事を産み、その結果が今日の出来事なのかもしれません

ですから真言、マントラ、経は心からの言葉であり

普段の私達の言葉という思いが先で、音となり

それが言葉として生まれる

わざわざ、神仏のマントラ言うよりも普段の慈悲、力ある詞が

大事と再認識した日でもありました

しかし、「真言は不思議なり」という言葉もあります

目に見えぬ、頭では理解できぬ事もあるという理解も

大事で、その秘密を探ろうと仏道に入った次第の一つでもあります

わたし、朝のお勤めで毎回言っています

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだらー まにー

はんどま じんばら はらばりたや うん」

これ言う前に、願いでもいい、先祖供養の一環でもいい

こうなって欲しいなでもいい

それを言って、その真言を唱えます

まずは1週間、2週間唱えてみれば幸いです

実感できるでしょう

光明真言と言います。

 

この真言、23字に万徳を集めたり

己をむなしゅうして一心に唱え奉れば

光明にてらされるであろう

そこから、不思議が始まります。

 

 

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