生きていれば憂いはつきもの
神仏にお頼み申しご苦労下さいと私たちは願います
さて、どのようなものが信心というか
それは、やっぱり人千差万別だと考えます
どういう事が信心なのか
ほとんどの人が直接的に信じるのはお坊さん、神主、修行者、霊能者を介し
その上に祀られる神仏だと思います
私は同時に観ています
介していただく方には「礼」を欠かしません
お礼の礼ではなく、その方の教えは守る、その通りにする
そして定期的、季節毎、挨拶にいく、このように昔から努めていました
自分にとってはこれが「義」となります。
この礼と義が揃った時、智が得られます
智を得れると慈しみという、俺が俺が、私が私がはなくなり「仁」が芽生えます
最後に必ず「信」がやってきます
それは机上の教えや書物では学び難いものです
10年で教えられ、ここ20年程、一人で歩いてきました
また、新しく仁義礼智信を学び始めます
自分が理解したい「信」はこのようなものです
それは誰にでもできる事です
簡単ではありますが
とても重い信です
ご一考下されば幸いです
あなたが思う、自身の深い心が読みとれてくると思います。
神仏への「信」とは
願わくは「無常の菩提を求む」です
自分自身が神仏の拠りどころになるのです
その為に、人生憂いを与えられています
つまり、介し者ではなく
いつ、いかなる時も状況も神仏と一緒と思う心が「信」だと
理解したく思います
憂いの中に神仏が隠されています
見つけた時、夜明けの明星があなたを照らすでしょう。
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