神道から観た人生一路

自分は神道と言っても、自分から見れば神社、祭式、古事記、日本書紀
云々、古史古伝書から学んだものではなく

すべてが神という考え方です、仏も神、神も仏、自然万物1つ神と捉えています
ですから、あまり儀式や作法には拘ってはいません

いませんが、「しきたり」現代語で言えばマナーやモラルで感受しています
ですから、学ぶという観念はなく、「知る」という感覚で
失礼がない、慈愛を持った神仏への接し方、そして何よりも感謝

そこに向き合う時に挨拶、手を合わせさせていただきました喜び、感謝を
退殿する時に形と言葉で表現します
現代社会でお世話になってる人、尊敬申し上げる方に対しての所作
これで高貴な尊厳なる存在に伝わると思っています

こうしなければ、神や仏には繋がらないなどという事はないという主観です。

この考えで長年、自分の神道を行ってきました
現在は僧侶という立場でもありますが自分の神道を行ってきて
常々、思うのが人の生まれてきてから体を滅するまでの「人生」の出来事

自分の人生ですね・・・
様々に思う人がいると思います

・何でこんな境遇なんだろう
・自分は何でこんな考え方しかできないんだろう、いつも人から嫌われる
・何で貧乏なんだろう
・何でいつも中途に終わり達成できないんだろう
・何で病弱なんだろう

色々、ここに書けないくらい、様々な人生を経験中の方もおいででしょう

これは長年のテーマなんですが、思うに
自分の人生は、日々の考え方や感情も自分が考えて行動してるのではなく
すでに、そうなるように設計セットされているからなんだと
そういう宿命の元に生まれてきている
決めたのは自分。

人生はすべてが「苦」で生まれている

このテーマに完結に及ぶのがお釈迦様が言った
人生は苦行、しかし、人は感情があるから出来るだけ善を行いなさい

この言葉で答えが出ました。でも何十年という月日がかかりました
かかった月日の中で学んでいったのではなく、知った結果でした

何でお釈迦様は苦と言い切ったんだろう、なんで善をしなさいと言ったんだろう

とっ考えて、よくよく考えてたら一瞬で答えが分かりました

人の人生は自分が考えて思って行動しているが、じつは違う

自分の人生は自分に起こるべき現実は縁起(因があって縁となり果が下る)があって決まる
生まれる前にその因果を背負ってきたのか、神が定めたのか?

でも、そこは重要ではないんですね

重要はどうするか?

それを苦とおもうならば善をしなさいに繋がるんですね

善はボランティア活動とか、神仏を毎日拝むとか、神社仏閣に行くとか、
そういう善の種類でなく

考え方

なんです
つまり、どう捉えるかをお釈迦様は善と言ったんだと答えを出しました。

自分の人生、日々の行い、思考はすでに決まっている

だから、アレがしたい、こうしたい、アレが欲しいとかの欲望は
とにかく思考はすでにセットアップされたもので

それを自分と思い込んでいる

けど、違う。

許されているのは、「どう捉えるか」

感謝や気づきや、ありがたいで捉えると

その先の人生は当然、幸せと思う人生になる

これには結論がすでに出ています

善をしなさいなんですね。

ここに書いたすべての要約が

ぎゃてい ぎゃてい  はーらぎゃてい はーらそうぎゃてい ぼーじそわか

意味は、あきらめてあるがままにすすみなさい

ただし、善をもてば、良い方向に必ずなるという事。

1 個のコメント

  • 満月🌕️の夜

    長年のご縁に感謝しかなく

    たくさんの“知る”事、嬉しく

    ブログも楽しみです❇️

    前には、よくわからなかった事も

    今では、理解出来て来ました😆

    拝読しながら、一人

    うん、うんって共感してます

    これからも、末永くよろしくお願いします🍀😌🍀

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