貪瞋痴とんじんちなる教え

貪瞋痴(とんじんち)は仏境の教えで聞いたこともあると思います

心の3つの毒であり、これが個人で始まり個人で終われば

その人だけで済みますが、世の中、たくさんの人や自然と関連し

その毒は周りの人の心を損ないます。

貪瞋痴のとは「むさぼる事」食欲もありますが、物欲、金銭欲

でも、お腹すいてる時なんか、一気にガァルルと食べてしまいますね、タマにありますね

自分が思う、最も最大なは、むさぶる=あれもこれも=だれもかれも

に対して支配欲を持つ人だと解釈しています。自身の意を相手に押し付ける

仮に相手がかわしても、何等か策を持って、自身の意を通し満足し、尚且つ

いつでもいう事を通す事ができるよう自然となってしまう

次に貪瞋痴のは、自身が嫌だ、不快だとおもう事に対して

人は考え方も行動も、また勉強が足りないんだなと様々だと思ってますから

そういう事はありませんが、感情をあらわにする人、その感情を通したいが故に

貪がまた、働きます。そして怒ったり、恨んだり妬んだりで周りを不快にさせます

特にお店などで、そういう世界をみますが、いつも理不尽でなければ

別にそこまで、怒らなくていいんやないと心で思ってます

そして貪瞋痴の痴は無知の知

自己主観でしか観ない、つまり自己利益的ですから故に愚かだと思うのです

自分は僧侶という立場ですから、戒律の受戒した時

これが一番キビシイからもっと自分を磨きなさいと言われました

つまり、貪瞋痴とは貧欲・感情の抑制・自分の心を他人に押し付ける自分優先勝手な人

という訳なんですが

そういう人に会っても心は防御するようにしています

ただ、肉体はダメージを受けて精気を取られるというか、運気が落ちるというか

まぁ体は疲れますから、知らず知らずどこぞで受けてきたのか最近は修行もあって

寺に行って落としてきてます(笑)

また、もし、自分が毒を盛られるという事になれば、それも因果であり

類以の世界にいるから、果という縁を持ってるわけです

つまり、不徳という事です。あ~あキビシイ・・・

 

特に昔は、子供の頃は、そういう人間じゃなかったんだけどなぁ

逆に元気を与えてくれたり、困ってる時は助けてくれたりと

心は通いあい、話しても安心感がある人だったんだけどなー・・・

貪瞋痴の部類であれば自ら自身をおとしめています

つまり強運が薄れてきてるという事だと思うのです

これも運勢とすれば時期という事でしょうか・・・それとも元来、持っている

という事なのかは分かりません。しかし、何かがどうしても手に入らないという

不安や苛立ちがその貪瞋痴を引き寄せてるのかもしれません。

しかし、その貧者を救ってあげる事もできます

これは誰にでも出来ます。

それは

観音経の最後の方に出てくる

念念勿生疑(ねんねんもっしょうぎ)という言葉があります

「疑いなく、ありがたく教えに向かって進みます」という心を自分が持つことです。

また、念念とは念は信心の始まりで、後の念は継続という疑いなく心を光に

持っていく事を言います。

人は一瞬、一瞬の積み重ねで日々が進み、月となり年となり人生となります

その一瞬とは刹那(せつな)ともいい測るに測れない仏教における時間です

そんな事を思いながら観音経を唱えてると

長い人生、日々の今日1日の中で

一瞬でも相手の人を思って過ごそうとか

このお経の功徳はその人に上げようと思う心が

自分の因果をなくす業になると思い

正座捻挫しながら、不徳分を消化してるこの頃です

別にお経唱えなくてもいいから

美味しいものを食べる時や楽しい、嬉しい気分の時は

一瞬でもいいと思うから、思う人に

心で届けてあげれば、立派な回向となり功徳を積む事が

できると思います。

 

     南無阿弥陀仏・・・合掌。

 

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